午後五時十分、彼女はここを通る。
「エミルクレア・ファルファ」身長170cm、体重58kg。肌の色は白系、髪と瞳は共に赤みがかった褐色。誕生日12月1日。現在21才。
千早重工のOLで、デザイン関係の仕事をしているのか、良く大きな図面ケースを持ち歩いている。今時データ化しない辺り、彼女のこだわりなのだろう。
彼女と初めて出逢ったのはリニアの中だった。手すりに捕まり、無言で外を見つめる彼女は、何かを待っているようだった。その時直感的に僕にはわかったんだ。彼女は僕を待っている!今ここで出逢ったのが僕らの運命なんだ。
愛し合うために生まれ、そしてやっと巡り合った。僕の身体は歓喜で震えた。彼女に話しかけようと、後を追った。
声は…掛けられなかった。自信がなかった訳じゃない。彼女も僕を見れば運命に気付いてくれる。それは確信していたが、何しろ女性と話した経験の少なさが緊張を呼んだんだ。
僕は彼女の帰り着いた建物の前で考えた。どうしたらいいか。緊張せずに話しかけられるようにならなくては…そして思いついた。友達になればいいんだ。もっと彼女の事を知り、近づけばきっと自然に話しかけられる。
そう思い付き、僕は急いで家に帰ってイントロンした。ニューロにとって個人情報を集めるのなんて簡単な事だ。彼女の名前や誕生日などから、良く行く店まで…ウェブ上に存在する彼女の痕跡は残らず集めた。
もっとも千早重工内のデータだけは無い。千早のガードは堅く、ばれずに侵入する自信が今一つ無かった。
ばれれば恐らく産業スパイと疑われるだろう。そして僕と最も親しい人物である彼女も…そうしたら彼女は辛い立場に立たされる。僕にはそんな危険は犯せなかった。彼女が大切だから…
暫くして、僕は彼女に話しかけようと試みた。直接話す前に、まずはポケットロンを介して挑戦する。
「はい。」
彼女の声だ!僕の心臓は跳ね上がった。彼女の声、エミルの声!甘美な感覚が全身を走る。
「もしもし?」
ウェブ上には彼女の音声データもあった。何度も聞いた声だ。でも違う!今彼女は僕のために話しているんだ。僕だけのために…
幸せを噛みしめ、僕は通信を切った。焦る必要はない。いずれ、僕らは結ばれる運命なんだ。今はこれで充分だ、これ以上の幸せがバチが当たる。
それから何度か電話を重ねた。次第に緊張もほぐれ、ついには彼女に話しかける事もできた。もっとも、僕が彼女を見ていた事を話したら恥ずかしがって切られてしまったので、以後は挨拶程度に抑えている。
そして今日、僕は彼女に直接話しかける決意をした。
午後五時十五分、いつもより五分遅れて彼女はやって来た。図面ケースを持ち、さっそうと歩いてくる。いつもより少し華やかな服装、メイクもしっかりとしている。何か有るのだろうか…
そうか!簡単な事じゃないか、彼女も僕に会おうとしているんだ。だからいつもよりお洒落をしているんだ。
あぁ、なんて気が合うのだろう。やはり運命の相手だけの事はある。
僕の胸は高鳴った。緊張と言うよりも興奮…二人の出逢いが今…
「…?」
不意に彼女が進路を変えた。何だ?同僚と一緒の時ならともかく、一人の時にあんな所で曲がる事はなかったはずだ。食料品はもっと自宅近くで買うし、日用品や洋服は休みの日に買いに行くはず…
僕は心配になり、彼女の後について行った。社外で何か仕事をして帰るのだろうか、それとも誰かに聞いた新しいお店でも捜しているのだろうか?どちらにせよ、それが終わり次第声を掛ける事にしよう。僕と会うのを引き延ばしてまでこなそうという用事だ。何か事情があるに違いない。
午後九時、僕はとあるマンションの前にいた。
あの後彼女は、一人の男にぶつかった。ボケっとしていた相手の方が悪いのは明らかなのに、優しい彼女は丁寧に謝った。そのうえ、店に入って酒まで驕った。彼女の優しさに付け入る相手の男は許せなかったが、ここで出て行ったら彼女の思いやりが無駄になる。そう思い、僕は我慢した。
そして、店を出た彼女はここに連れてこられたのだ。あの男の住居と思われるこのマンションに…
あの見るからに好色で軽薄で不誠実そうな男が彼女をどうするつもりなのか…考えるまでもない!いや、考えてる場合じゃない!!
僕はすぐさま駆け出し、マンションの入り口へ向かった。オートロックの操作パネルと体内のワイヤ&ワイヤを接続し、セキュリティを破る。ついでに操作記録から男の部屋を割り出し、ロックできないようにした。こうしておけば、簡単に部屋に乗り込める。精神が高揚しているせいか、処理は迅速で確実な手ごたえがあった。これなら…!
大急ぎで男の部屋に向かい、ロックの掛かっていないドアを開く。
「エミル!?」
思わず彼女の名が口から飛び出る。玄関に揃えられた靴、床に落ちている開いたままの図面ケース、シャワーの音…
とっさに音の方へと床を蹴る。と、ほぼ同時にバスルームの扉が開き、中から人影が滑り出た。
白い肌、褐色の長い髪、そして、僕を見つめる瞳…
「エミル…」
乾いた髪、先ほどまでと変わらぬ乱れの無い服装。間に合った…
「エミル…良かった…」
安心するのと同時にここまで走ってきた疲労が襲いかって来た。乱れた呼吸の中に安堵のため息が混ざる。彼女はそんな僕を見つめ、目を細めた。口紅で飾られた唇がゆっくり微笑む。
笑顔。僕だけのための笑顔。今までこんな笑顔を見せた事はなかった。僕にだけ…エミル…
エミル、エミル、エミル、エミル、 エミル、エミル、エミル、エミル、エミル、 エミル、エミル、エミル、エミル、エミル、 エミル、エミル、エミル、エミル、エミル、 エミル、エミル、エミル、エミル、エミル、 エミル、エミル、エミル、エミル、エミル、 エミル、エミル、エミル、エミル、エミル、エミル、 エミル、エミル、エミル、エミル、エミル、エミル、 エミル、エミル、エミル、エミル、エミル、エミル、エミル、エミル、エミル、エミル、エミル、エミル、 エミル、エミル、エミル、エミル、エミル、エミル…
歓喜でフラッシュアウトしそうな意識を必死で保ち、彼女が近づいてくるのを見つめた。その瞳、唇、髪…ん?
揺れた髪の隙間から何か赤いものが覗いて見えた。妙に気にかかったが、今はエミルが…
その瞬間、僕は銀の光を見た。
「おはようございます、班長。」
千早重工のオフィスの一郭、褐色の瞳に社交辞令以上の笑みを浮かべ挨拶をする一人のOL。一方その相手はデスクワークから顔を上げず、事務的に返す。
「報告ですか?ファルファ君。」
「はい。」
そこでやっと顔を上げ、手を止める。傍らのキーを操作すると、なにやら画面に文書が表示された。
「昨日二十一時○五分、『ブレイ技術企画』の処理を致しました。」
「『プレゼン』の方は?」
「『図面』が有りますが、ご覧になりますか?」
上司は彼女のデスク脇の図面ケースに視線を走らせ、首を振った。
「結構、確認しただけです。」
「はい、では失礼します。」
丁寧に一礼し、自分のデスクに向かう。と、それまで表情を崩さなかった上司が一瞬怪訝な顔をした。
「ファルファ君。」
「はい、何でしょうか?」
呼び止められた彼女は、驚いたように振り向いた。
「昨日まで言っていたストーカーはどうしました?」
瞬間、彼女は胸の前で手を組み、瞳を輝かせた。
「し、心配して下さるんですね、メルトダウン班長!」
「心配と言うより不審に思っているんです。」
一ヶ月以上、毎日毎日、習慣のように繰り返されていた会話を突然しなくなったら怪しまれて当然である。が、彼女にはそんな事はお構い無しらしい。
「あぁ、班長にそんな事を言っていただけるなんて、エミは幸せです。」
「……」
彼女の『幸せです』状態は皆慣れっこらしく、上司も同僚も敢えてツッコまない。機会を窺い、話を促す。
「で、どうしました?」
「昨日たまたま現場に居合わせて…問題点が出る前に一緒に処理しました。」
そう言って彼女は微笑んだ。血の香りのする図面ケースを持って…
XYZ...